「習慣」について深く考えてみる
このところ筋トレをサボってしまった。「サボる」という現実が起きるのは、「やらされている感」や「やらなきゃ」という感情がある証拠。
顕在意識では「やった方が良い」とわかっていてもついついサボってしまう。これは「習慣化できていない」という事だ。
顕在意識レベルで「やった方が良い」と認識している事を、習慣化できれば=最強となる。
では、習慣について深く掘り下げてみたい。
私たちの習慣の中で最も自然に行なっているのは「呼吸」ではないだろうか?呼吸する事=無意識と言える。
出来ている習慣
・呼吸
・早起き
・朝のうがい、帰宅時の手洗いうがい
・午前中の散歩
出来ていない習慣
・筋トレ
全て頭の中(顕在意識)では、「やった方が良い」「やらなきゃ」なんて考えているが、筋トレはよくサボってしまう。
「サボる理由」を検索すると、一人でやらないとか、解決策が色々と出てくる。どれをみても苦行を克服するかのようなアドバイス。
これじゃあ続かない。
おそらく習慣化とは、潜在意識レベルに設定されているプログラムの書き換えこそ答えじゃないかと思う。
最たる習慣である「呼吸」を「パーソナルトレーナーがついてないとサボっちゃう」なんて事にはならないはず。
思うに「トレーニング」という定義や概念が=苦しい事という結論を出してしまっているのではないだろうか?
そもそも人間は「狩り」や「漁」で食料を調達していた時代もある。
そのころは運動不足などあり得ないし、運動やトレーニングという意識も無かったはず。
結論は「苦しいもの」「大変なもの」という観念の問題だという事。
出来ている習慣「呼吸」「早起き」「朝のうがい、帰宅時の手洗いうがい」「午前中の散歩」は、まったく苦痛に感じていない。
ところが「筋トレ」になると、なんとなく苦痛を伴うイメージを抱いてしまう。「鍛える」とか「トレーニング」なんて言われるからだ。
筋肉がついてくれば「鍛えてるね」とか「鍛えてるの?」なんて言われる。そうやって何十年も生きてきたわけです。
これが「筋トレ=苦しいもの」と無意識に考えてしまう理由です。
潜在意識の設定(プログラム)をチェンジしましょう。人間は本来「狩り」や「漁」で食料を調達しており、運動不足なんてあり得なかった。
当然、現代より肥満も少なかったでしょう。
それが異常なまでに便利な世の中(地下鉄でどこでも行ける、スマホがあるので迷わないetc)になったため、歪みが生じてしまった。
電車で立っているのも、2駅くらい歩くのも、エスカレーターを使わないのも、本来の人間なら標準的なこと。
技術革新による運動不足が生じているが、これを不自然と思う風潮がありません。
運動をするというのは本来あるべき姿に戻る行為であり、本来あるべき以上に苦しい大変な思いをする事ではない。
このように定義しなおして習慣化されるか試してみたい。
Point.
私たちは「苦しい」と定義しているもの(心から信じているもの)を習慣になんて出来ない。
習慣化したいなら、それは苦しいものではなく「自然である」と定義し直すと良い。 「出来ない」と信じていることが実際に出来ないのと同じロジック。